関東大震災から100 年目の劇映画『福田村事件』…「日本のメディアがゴミだと思うなら、それは社会もゴミだということ」ドキュメンタリー作家・森達也がそれでも日本に絶望しない理由
福田村事件について
劇映画『福田村事件』は、ドキュメンタリー作家である森達也が初めて監督を務めた作品である。この映画は、1923 年 9 月 6 日、関東大震災から5 日後に千葉県福田村で実際に起こった行商団 9 人の虐殺事件を題材にしている。薬売りの行商団が朝鮮人と間違われ、村人たちによって殺されたこの事件について、森達也監督はどのような背景で映画を製作したのか、語っている。
「集団」と「個」の相克
森達也監督は、映画『A』(1997)を撮影した際に、「なぜこんなに穏やかで純真な人たちが事件を起こしちゃったんだろう」という疑問を感じたと述べている。この問題提起に対する答えとして、彼は「集団」と「個」の相克を考えるようになったと語る。
人は一人では生きていけない存在であり、集団になったときには個人ではできないことをやってしまうことがある。虐殺や戦争といった負の歴史は世界中に存在しており、集団がもたらす副作用もあると森達也監督は指摘する。
「集団」と「個」の相克は、森達也監督にとって重要なテーマであり、『A』や『A2』、さらには『FAKE』や『i-新聞記者ドキュメント-』などの作品にもつながっている。彼は劇映画『福田村事件』でこのテーマを集大成的に表現することができたと述べている。
負の歴史を描かない映画への異議
森達也監督は、日本社会全般が過去の負の歴史を忘れようとする傾向が強まっていると感じている。この傾向は映画業界においても顕著であり、負の歴史を描いた劇映画はほとんど存在しない。一方で、ドキュメンタリー映画には多くの作品が存在するものの、そのマーケットは限定的であるため、森達也監督は映画業界の一員として、負の歴史を描かないことはおかしいと感じたのだ。
彼は、ナチスやホロコーストをテーマにした多くの映画がドイツを含めて量産されている一方で、アメリカ映画も黒人區別や先住民虐殺、ベトナム戦争の負の歴史などに取り組んでいることを指摘している。また、韓国でも光州事件をテーマにした映画『タクシー運転手』がエンターテイメント作品として大ヒットした例もあると述べている。
劇映画としての選択
森達也監督は、『福田村事件』を劇映画として製作することを決めた理由について語っている。彼によれば、この事件は100 年前に起こった隠された出来事であり、映画にする素材が非常に少なかったという。そのため、映画ではなくテレビの報道枠で特集として取り上げることは可能だったかもしれないが、映画として制作するならばフィクションとしてのアプローチが必要だったと答えている。
創作と真実
『福田村事件』では、史実に忠実に描かれた部分もあるが、登場人物である主役のふたりは完全なフィクションであることを指摘している。彼らは、日本統治下の京城を離れ、故郷の福田村に戻ってきた設定のキャラクターであり、「よそ者」として描かれている。他の登場人物も村の外から来た異物であり、閉鎖的な社会においてドラマを作り出すために敢えて配置されている。しかし、森達也監督はこの映画は史実に即した作品ではなく、史実からインスピレーションを受けて創作された映画であると述べている。
ドキュメンタリーと劇映画の視点の違い
森達也監督はこれまで、さまざまな事件を当事者の視点で捉えたドキュメンタリー作品を制作してきた。しかし、今回の『福田村事件』では当事者ではない人物を主人公にすることを選んだ理由について語っている。彼は、劇映画としての制作であるため、自身の視点が主人公である智一や静子、倉蔵といったキャラクターに反映されたのだと述べている。
報道は「視点」であり、信じるものではない
報道の役割
森達也監督は、「報道は『視点』であり、信じるものではない」という考えを持っている。報道は事実を伝えることが求められるが、その事実も報道機関の視点によって選択・加工されていると指摘する。報道機関は特定の視点を持ち、その視点を基に情報を伝える役割を果たすが、視点の違いによって同じ事実でも違った形で伝えられることがある。
信頼性とは何か
報道の信頼性について森達也監督は疑問を投げかける。彼は、報道を鵜呑みにすることはせず、多角的な情報収集と検証が求められると主張する。報道機関が持つ視点を意識した上で、自らも視点を持ち、情報を検証することが重要であると森達也監督は述べている。
ドキュメンタリーと劇映画の違い
ドキュメンタリー映画と劇映画の違いについて、森達也監督は言及している。ドキュメンタリー映画は、客観的な視点で現実を捉えようとするものであり、出来事を正確に再現することに主眼が置かれる。一方で、劇映画はフィクションとしての要素を取り入れることで、よりドラマティックに描かれることが多い。森達也監督は、このような違いを明確に認識し、映画制作において適切な手法を選択する必要があると語っている。
絶望しない理由
絶望しない理由
最後に、なぜ森達也監督が日本に絶望していないのかについて触れている。彼は、社会やメディアがゴミだと感じるときには、それは社会自体がゴミだということを意味するのだと述べている。しかし、彼は絶望しない理由を持っている。
森達也監督は、映画を通じて問題提起をし、社会に対して批判的な視点を持ち続けることで、社会を変えていく可能性を信じている。絶望するのではなく、問題に向き合い、行動することが大切だと彼は訴えている。
このように、劇映画『福田村事件』の製作背景や森達也監督の考えについて詳しく報告してきました。彼の視点から見た報道の役割や映画製作の意図など、私たちが考えるべき問題が浮かび上がってきました。
<< photo by Karina Kungla >>
この画像は説明のためのもので、実際の状況を正確に描写していません。